蒼泉寺について

蒼泉寺概略

蒼泉寺本堂

 風光明媚な常陸大宮市長倉、那珂川の北側台地にある曹洞宗蒼泉寺。長倉城主十四代佐竹義興公が曹洞宗善慶寺(現在の石岡市柿岡)の跡地に、慶長元年(1596)に創建。小田原最乗寺(道了尊と称され天狗様の寺として著名)の末寺同所早川海蔵寺より安叟宗楞和尚を排請開山し、現在まで四十六世に及んでいます。往時は、遠く笠間、那珂、下圷に及ぶ十三ケ寺の末寺を有する名刹でありました。文化三年(1806)に諸堂を焼失しましたが、文化八年(1811)に再建。現在の堂宇がそれです。本尊は聖観世音菩薩が安置されております。

蒼泉寺概要

本堂内陣
寺院名 南嶽山 蒼泉寺(なんがくさん そうせんじ)
住所 〒311-4613 茨城県常陸大宮市長倉1747
TEL/FAX 02955-5-2565
宗派 曹洞宗(禅宗)
高祖承陽大師道元禅師(こうそじょうようだいしどうげんぜんじ)と太祖常済大師螢山禅師(たいそじょうさいだいしけいざんぜんじ)を両祖とします。
本山 大本山永平寺(福井)・大本山總持寺(横浜)を両大本山としています
本尊仏 聖観世音菩薩坐像(寛文五年-西暦1665年)
創立 応永八年(1401年)
創建 慶長元年(西暦1546年)
開山 安叟宗楞大和尚(あんそうそうりょうだいおしょう) 現在は第46世
開基 長倉城主 佐竹義興公(14代長倉遠江守)
長倉追罰記(続群書類従所収)

 当山に隣接する、長倉城跡は、佐竹義成公(当山開基の佐竹義興公の先祖である)が城主であった室町期の永享七年(1435)六月、鎌倉公方足利持氏の号令による、長倉攻めが行われた地です。20年前の上杉禅宗の乱に呼応し、挙兵した山入一族の討伐の為に足利公方方は、6000名の将士が城攻めを行い、それに対し防備を固めた長倉軍が籠城戦に耐え、勝利を収めたといわれています。
 その城攻めの際に書かれた長倉追罰記(長倉状とも言う)には、全国から参戦した武将120余家の家紋が描写され、当時の家紋を知る上での貴重な資料として有名です。

(長倉追罰記-「続群書類従巻第六百十四合戦部四十四」所収)

風格ある建築様式と芸術文化の粋

境内薬師堂

 境内には薬師堂があり、本尊である木彫の薬師如来坐像は、堂宇の建築様式と共にかなり古い技法と言われている。また、本堂内の内陣の格天井には、112枚もの花鳥風月が描かれ、荘厳の一言である。

蒼泉寺の文化財

  1. 格天井(花鳥風月~112枚の極彩色の絵) 津村雨林作
  2. 薬師堂の建築(室町末期の建築様式)
  3. 結城寅寿の墓

津村雨林

津村雨林作 格天井

名は基則、字は伯柯、通称は文兵。中国の倪雲林に魅せられ雨林と号した。南画の技法をあくまで墨守した。同郷で南画の大家となった高久靄厓は「下野では喜連川の津村基則、黒羽の小泉斐などが名手である」と四家合談で評した。しかし、遺作は極めて少ない。

絵画のほかに彫刻や楽焼なども得意とし、祇園祭の山車を喜連川で初めて作った。

1774(安永三年)~1832(天保三年)
 江戸後期の喜連川藩絵師

結城朝道(寅寿)

結城寅寿の墓

本堂西側にある結城朝道(寅寿)の墓。水戸斉昭に使え、俊英の誉れ高く、執政職(家老)として重要されたが、水戸家の内紛により失脚。長倉松平頼功(松之充)へとお預かりとなり、安政三年(1856)死去。

当山三十七世米庵天貢和尚がその死を悼み、ひそかに首を寺内に葬ったと言われている。

1818(文政元年)~1856(安政三年)・幕末期の水戸藩執政